「える」 ゆっくりとした呼気が動きのない室内の空気を震わせた。 「なんです?」 その震えを至極無粋に見逃し、前髪の影の落ちる暗い瞳が動いた。 「こんな質問もいまさらなんだけどね?」 空気を震わせ、さらにそこに濃度を足すかのような甘い、甘い声だ。 「どうしてLは、俺を捕らえようと思ったの?」 瞬きをしない、隈のついた黒い瞳が、さらに動いてある一点に留まる。 そこにはやはり誰もが目に留めるだろう程の美貌を、にっこりと、誇示する男が。 Lは目線をそのままに、手に持ったカップにゆったりと口をつける。ぞろりとカップの底に融け残っている コーヒーシュガーがざわめいた。 「・・・珍しいですね。貴方が過去の話を持ち出してくるなんて、」 「だって世界のLが今は“キラ”にべったりじゃない。俺のときは、如何だったのかな?・・なんて」 思ったり・・と、意図的に、声には糖度が加わる。 「なんだか、嫉妬されている気分なんですが」 “L”のその言葉に、ぱちり、と目を瞬かせた後、美貌の男は再び甘く微笑む。 「じゃあ、L。俺にも少しはかまってよ」 男のそれもまた美しい指が、するりとチェス盤を撫でてパソコンの電源を切った。 「んぅ、また俺の負け」 「・・もう少し執着してみたら如何ですか?不利になるとすぐに飽きる。何手先を見てそれ言ってるんです」 Lは呆れたように首を傾けて白黒のボードの向こうを見やる。 否まさに正しく呆れられた男は逆向きに首を傾けながら、ごく軽く反論する。 「Lに勝とうなんてそんな面倒なこと思ってないし。何手先って、俺の勝てる確率が50%切った時だよ?」 Lはむすりと口を曲げる。いすの上に窮屈に曲げた足も、ぴくりと反応した。 「私の裏をかく手を考えるのが面倒なだけでしょう。だいたい勝負は最初から50%の確率から始まるものなの に、自分が必ず優位でないと止めるだなんて、どれほど負けず嫌いなんですか?」 「諦めがいいだけさ。それにL、負けず嫌いは俺じゃなくてお前だろう?勝った気がしないからってそういらいら するなよ。なぁ?」 華やかでにこやかな笑顔。まだ傾いたままの首筋に、さらりとかかる髪さえも艶めいている。 人を絆すその甘い笑みに、しかしLは少しいやそうな顔をしただけで、チェス盤に目を落とした。 付き合いの長さゆえにその笑みの意図(機嫌直せよ、)も裏の意図(いいだろ別にぃ)も意識するまでもなくLに 伝わっている。 「自分から誘っておいて、それはないでしょう・・私はキラ捜査に戻ります」 すでに整えられたチェス盤を置き土産に、Lは椅子を降り背を丸めて移動し始める。 「・・どうせ煮詰まってたくせに?」 「うるさいですよ」 間髪いれずに言葉が投げ返される。 けれども、Lは少しも振り返らない。 あぁ、と秘かに息を吐いて、不機嫌を作り出した男がやりすぎたかな・・と反省した。その結果。 もしくは、成果だったか。 「L、」 ひそりと囁かれる、その艶めいた声は空気を震わすより先にLの耳に届いた。届けられた。 振り払えないような緩やかさで回された腕が、Lを引き止めたのだ。 「・・まったく貴方は、猫のように動きますね」 足音もなく、するりと拘束された状況を、弁解するように。不可抗力を、主張するように。 そんなLを負けず嫌いだ、と笑って。(振り払いは、しないんだから、) 背後から抱きしめられたまま、接した温度の、振動によってLはその笑みを見た。笑われて不機嫌が戻る間際の 絶妙なタイミングで、振動が止む。 「悪戯を、してやりたくなっただけなんだ。ねぇ、ごめんね?かまって欲しかっただけだよ?」 率直過ぎる言葉に、今度はLも何も返せなかった。 (きっと私の反応を、面白がって待っているのでしょうけれど) 付き合いの長さから、謝罪の言葉にも、うそはないと伝わってしまった。 「貴方の性格は、とても厄介な代物だと思いますよ、私」 「Lのその言葉は、最高の褒め言葉じゃない?」 進むのとは逆のベクトルに引かれた体が、接したまま椅子に沈んだ。座りにくいんですが。推理力なんて今は要ら ないだろ? 「・・貴方が本当にかまって欲しくなったら、また逃げ出したらいいじゃないですか」 「Lも意地が悪いな?俺がお前に、過労死なんて許すと思うのか?」 あ、と息が漏れる。続いて、笑いたいような、気分が。 「・・貴方と、いう人は」 確かに指摘されるほど、Lは苛々と、していた。(過労死は大袈裟だが、) 「・・馬鹿ですか?」 体調管理くらい、自分でしますよ、と呆れたような声で。 「心配してくれてありがとう、くらい言ってくれてもさぁ?」 「自分で言うんだから、馬鹿でしょう」 暖かな温度と振動。 (もう少しくらいは、我慢してやってもいいでしょう)